昭和44年6月5日、快く雀會の囃子の指導を引き受けてくれた古谷本郷 笛の渡辺儀助、太鼓の杉山三ニの両名人を迎え、町内の熊野神社にて、稽古が始まり雀會が発足しました。
※以下は平成20年当時、古谷本郷 野村氏よりお教えいただいた内容に基づいた記述となります。
古谷本郷の囃子連は宝暦年間(1750~)に祇園囃子→神楽→江戸囃子の流れをくむ古囃子を教えられた。
これは素朴で単調な囃子であった。
明治の初期に今迄の古囃子から葛西囃子、神田囃子のいわゆる新囃子に移行する。
これは、葛西囃子から分系した複雑な技法の神田囃子の流れをくむ大宮の木の下流から改良して編み出された複雑な技法の賑やかな調子の上尾の堤崎流となる。
当時木の下流は、川田谷村(桶川)や川越方面に多くの弟子がおり、仲間を介して堤崎流の囃子(里神楽も含む)を明治中期に教え習ったと伝えられる。
堤崎流の囃子を習ったのが幸町、府川、古谷本郷等の囃子連とされる。
大正8年屋台を創り祭り囃子が村の人々の間で楽しみの一つに盛んに行なわれたのではないかと思われる。
古谷本郷囃子連は古尾谷八幡神社の祭礼に際しては、鳥居前にて屋台囃子に移り、本社殿まで舞は天狐または獅子にて奉納する習わしになっている。
関東大震災や戦争等の被害を受け囃子は一時中断をせざるおえない状態になった。
戦後復活し、昭和27年には埼玉県郷土芸能祭に参加し、埼玉県観光連盟より感謝状を受けた。昭和30年には国道16号の上江橋の開通式に屋台を出して祝囃子を演じた。
また、昭和30年代には川越祭りにも屋台を荷馬車に積み川越市通町に参加した。
(加筆:雀會発足前、連雀町の山車には寺尾囃子連に続き、古谷本郷囃子連が乗っていました。)
しかし社会の時代の流れで農家の人手も足りない状態になり祭り囃子も時の流れには勝てず解散を余儀なくされた。
昭和47年に屋台の売却話をきっかけに千手会囃子連を再発足させ、昭和48年9月9日古尾谷八幡神社の礼大祭の夜に初舞台を踏み9月14日15日も無事終演した。昭和50年のほろかけ祭りには秋山建設の先代社長の元、屋台の修復をし神社に奉納した。昭和52年から57年迄の6年間川越祭り(中央通り商店街より依頼)に参加、その後一時中断したが昭和61年に秋山社長の尽力により、中央通り(和月料理十和田)の駐車場に舞台居囃子で川越祭りに再び参加し現在に至る。
(加筆:平成後期には上述駐車場が使えなくなったため、機会あるごとに川越市の猩々の山車にて川越まつりに参加)
|